ジャニーズに牙をむいた男・村西とおる~トシちゃん騒動の真相~

あのジャニーズに牙をむいたひとりの男がいる。

彼の名は「村西とおる」。
そう、当時のAVを堪能していた男性なら誰もが知る有名AV監督だ。

事件は1988年に勃発。

芸能界最強と呼ばれるジャニーズ事務所に無謀にも牙をむいたのが村西とおるだ。

発端は所属AV女優の梶尾恭子が「わたし、トシちゃんのおっかけで実はトシちゃんとしちゃったの」と発言。これをキッカケに村西とおるはそれをパロディー化したAVを発表したのだが・・・。

今回は芸能界史上最強と言っても過言ではない、村西とおるとジャニーズ事務所の対立についてまとめた。

芸能界史上最強バトル「村西とおる vs ジャニーズ事務所」

村西とおるのプロフィール

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村西とおる(むらにし とおる、1948年9月9日 – )は、日本のAV監督。本名、草野 博美(くさの ひろみ)。福島県いわき市出身。ハメ撮りの帝王の異名を持つ。

生い立ち
福島県立勿来工業高等学校卒業後、上京。水商売を経て英会話教材・百科事典のセールスマンになり、巧みなセールストークで月40セットを売り上げるなど、優秀な成績を収めた。その後北海道において、当時インベーダーゲームブーム真っ盛りのゲーム機の設置・販売を手がけ財をなすが、ゲーム機の新作発表会を見に上京した際に新宿・歌舞伎町でビニ本に出会ったのを機に裏本の制作・販売業に転じ、全48店舗を擁する北大神田書店グループの会長にまで上り詰める。

引用:Wikipedia


Focus 1: 村西とおるの問題作「ありがとうトシちゃん」の発売

 

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戦後芸能界最大のスキャンダルと言っても過言ではないジャニーズ事務所と大バトルをおこした事件は1988年春、勃発した。

その前年「AV界の帝王とよばれる村西とおる監督の撮影隊が沖縄でロケをおこなったとき、新人女優・梶原恭子がこんなことを漏らした。

 

「トシちゃんとしちゃったの」

 

トシちゃんこと田原俊彦といえば、1988年当時、抱かれたい男NO.1、視聴率も「教師ビンビン物一語」をはじめあいつぎトップを独走、映画「課長島耕作」の主演を射止めたのも当然であった。

 

画像:田原俊彦

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そのトシちゃんと一夜を共にした、と新人AV女優が夕食時に告白したのだ。

村西とおるが証言する。

「日航が経営してた沖縄のホテルで撮影して、夕飯のときに何気なく(梶原)恭子が『こないだわたしトシちゃんとしちゃったんだ』って、もう何気ない話なのよ。僕はその横で『あー、そうなんだ。どうだった?』って聞いたのよ。“楽しかったの?みたいに聞き流してたの。でも途中から、あれ? その話って面白いんじゃないかって。『また撮影するときに、その話お前しろよ』と言ったら『うん、わかった』って。それで何気なくしゃべったの。そんときはあんまり意識してないんですね」

松本伊代にちょっど似ているだけで、松友伊代という芸名をつけて強引に売り出した村西とおるのことだ。何気な一言にとんでもない反応を示した。

『ありがとうシちゃん』(クリスタル映像・88年)というパロディチックな作品を完成させたのだった。

梶原恭子はトシちゃんの追っかけをしていて、金沢のコンサートで見初められ、その夜に関係を持ったというのだ。

村西とおるがパッケージにつけたコピーは村西流便所の落書き的なものだった。

<トシちゃんのあれが私の中をズボったの>
<大きさは普通以上かな。でも色がきれい> .
<バック、騎乗位、いろんな形で……>
<たまらなくなってイってしまったの。恭子の私生活に登場したトシちやん>

男優にトシちゃんのお面をかぶらせて梶原恭子とからませる悪のり演出も、すべてを俗悪風味に変える村西とおるならではのものだった。

だがこの悪のりが災難をもたらす。


 

Focus 2: ジャニーズに呼び出された村西とおるを待っていたのは・・・

 

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「日本テレビ系『11PM』のレギュラーにおれが出てたんだよ。ディレタターから『監督、今度はどんな作品ですか?・』って聞かれたから、『ありがとうトシちゃんだよ』って言ったら、『あ―、面白いですね』ってウケたのがテレビにバーンと出たわけ。そしたらさ、大騒動になったわけよ」

田原俊彦を筆頭に近藤真彦、野村義男、光GENJI、少年隊、シブがき隊といった男性アイドルの大半が所属するジャニーズ事務所は芸能界最大のタブーであった。村西とおるはそこに手を突っ込んでしまったのだ。

「次の週にスタジオに行ったら、ディレクターたちの姿が見えないんだね。島監督も今週で(出演は)けっこうです』って話になっちやったわけよ。聞いたら日本テレビの幹部のところに、メリー喜多川からクレームがきてたんだって。それでディレクター12人がクビになっちゃった。これは許せない、弔い合戦しなきゃ。今度は「週刊ポスト」がそれを書いたんですよ。『面白いですね監督、いきさつを聞かせてください』と」

「週刊ポスト」(88年4月8日号)にはこんなセンセーショナルな記事が載った。

 

「<衝撃の告自>ビデオギャル梶原恭子 有名アイドル歌手Tは私の回の中で“筋骨隆々”となった」

 

すると当のジャニーズ事務所がこの記事に猛烈な抗議をおこなった。

小学館の会議室が抗議の場となった。

抗議側はメリー喜多川副社長、自波瀬傑広報部長、メリー喜多川の娘・ジュリー、そして田原俊彦本人。

「こっちも相手にとって不足はないですよ。メリー喜多川副社長はこんなこと書きやがってと、もうカリカリしてたよね。トシちゃんも、トシちやん自身を演じちゃって、あの口調で『僕はこの子と寝てなんかいないよ』と言うんですよ。この期に及んでまだトシちゃんしちゃってるんだからね。うちの恭子だって負けちゃいないよね。やった、いややってないって、天下の大出版社で言い合うんだよ。アハハハ!おれはそんなことどうでもいいだろうと思って、『田原君ね、きみも男だし、この社長連中のいる前できみはね、やりましたとは言えないだろうけども、黙ってたらいいんじゃないのか』って言ったんだ。うつむいてたよね。そしたらメリー副社長がカチンときたんだね。『ジュリーさん、呼びなさいよ、呼びなさいよ!』って言うんだよ。で、目ぐばせしたら、『ハイッ!』ってジュリーが一扉を開けたの」

隣の部屋から6名の若い女たちが血相を変えて乱入してきた。熱狂的な田原俊彦親衛隊だった。

「あんた、コンサート会場になんかいなかったじゃないのよ! ウソつき女」

相次ぎ親衛隊から梶原恭子に批難の矢が放たれる。本来なら抗議の場に所属タレントを連れてくることはないのだが、このときの情勢を最近になって村西とおるが分析する。

「メリー副社長は娘に(外敵の)しばき方を教えないといけないと思ってるんだね。娘への英才教育、こうやって敵を打ちのめすんだ。お母さんは、ああやって平伏させたでしょうっていう後継者教育なんだろうけどさ。あのころ娘のジュリーと田原俊彦がつきあっているといつ噂があったでしょ。母親も、娘が(田原を)好きなら一緒にさせるしかない、と思ったんだろうけど、あれを亭主にするのはね。人の上に立つポジションはもつとしっかりした人じゃないとと思ったんだろうね。メリー副社長は、マッチを寵愛してるからね。わたしのマッチはどうするんだってことですよ。ともかくここでトシちゃんを一発ぎゃふんとさせないと。あの場にトシちゃんを連れてくるのがメインテーマだった。ジュリーにしてみたら、トシちゃんが追っかけと寝たなんてこと、信じたくない。だからわたしに証拠見せてちょうだいって思いですよ。だからね、あのとき、メリー副社長は『この機会にトシちゃんを放逐してマッチを帝国のNo.1にしようという』と思いを巡らせていたんですよ。メリーはマッチがかわいくてかわいくてしょうがないんだから」


 

Focus 3: さらにジャニーズスキャンダルを追求した村西とおる

 

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メリー喜多川副社長と親衛隊に面罵された村西とおるも、ただ黙っているわけではなかった。「すでに小学館前に写真週刊誌「フォーカス」の敏腕カメラマンを呼び寄せ、出て来るメリー喜多川、田原俊彦を激撮させることに成功、「フォーカス」の誌面を飾った。

ジャニーズとの全面戦争を呼号した村西とおるは、『ジャニーズ事務所マル秘情報探偵局』を開局した。まだSNSがない時代、村西は電話回線を1本引き、全国からジャニーズ事務所にまつわるスキャンダル情報を集めようとした。

その中に、紅白歌合戦連続7回出場、初期のジャニーズ事務所を支えたフォーリーブスのリーダー北公次が芸能界をなかば引退し、和歌山県田辺市に蟄居しているといっ情報が混じっていた。

 

画像: フォーリーブス北公次

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北公次ならジャニー喜多川社長と深い関係にあったことを話すのではないか、という情報がもたらされ、村西とおるは部下のサンドバッグ軍団に命じて居場所を突きとめ、北公次を東京に呼び寄せた。

当初、北公次はかたくなにジャニー喜多川社長との関係を否定したが、村西とおるの熱心な応酬話法によって重たい口を開き、ジャニー喜多川社長と同棲し、つきあっていたことを打ち明けた。

「光GENJIへ」(1988年・データーハウス刊)という禁断の半生記を北公次が執筆すると、35万部という大ベストセラーになり、北公次は再び脚光を浴びる。

だが地上波、女性週刊誌、といったジャニーズ事務所の圧力に弱いメディアは北公次の名前を封印、このベストセラーも無かったかのように無視した。

深夜放送で、あるタレントが「復活した北公次のライブを観に行った」と発言したところ、北公次の部分だけがピー音で消されていた。この時代、北公次は放送禁止用語にまでなっていたのだ。

ジャニーズVS村西とおるはさらに炎上し、村西とおるは北公次カムバックのために、なぜかマジシャンとして再起させようと数千万円を投資し、マジックの大道具をそみえさせた。

だが北公次はあくまでもロックシンーにこだわり、そこで両者の意思が離れていく。

1989年初頭、ライブハウス渋谷エッグマンで北公次が復活、あの伝説のバック転を披露し、往年のファンを激しく感動させた。

客席でAV女優・青木琴美と共に温かく見守っていたのは他でもない騒動の火付け役村西とおる本人だった。

その後、北公次はシンガーとして活動し、 2012年2月22日肝臓癌により死去。63年の人生に幕を下ろした。

村西とおるは本業以外の活動もふくめて乱費がたたり負債50億円の借金を抱え、苛烈な借金返済の日々を送る。

ほぼ返済し終えた現在、村西とおるは68歳になった。

ジャニーズ事務所は北公次スキャンダル、SMAPの解散騒動があったものの、芸能界における影響力はますます強まり、他を寄せ付けない存在になっている。

 



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