ステゴロ最強!今も語り継がれる「花形敬伝説」

中学生の時点で身長は180cmを超え、自分が汚れる前に相手を叩きのめしたという数々の喧嘩伝説が語り継がれている元安藤組幹部・花形敬。

あの力道山も震えたというエピソードや、ステゴロ(素手の喧嘩)最強と恐れられたことから、花形敬は伝説の喧嘩師として漫画『グラップラー 刃牙』の花山薫のモデルになるなど、格闘をテーマとした作品の登場人物のモチーフとされることも。

戦後、渋谷を根城に安藤昇率いる安藤組はそれまでの任侠ヤクザとは一線を画す、愚連隊として裏社会を操っていた。

そこで今回はその安藤組の幹部である花形敬の伝説をまとめた。

中学生で身長180cm…伝説の喧嘩師・花形敬の屈強エピソード

花形敬のプロフィール

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花形敬(はながた けい、1930年 – 1963年9月27日)は、日本のヤクザ、喧嘩師、安藤組大幹部。

安藤組組長・安藤昇にもっとも可愛がられた人物。前科7犯、22回の逮捕歴を持った。安藤による評価が高く、また、花形をモデルとした人物が小説や映画、漫画に数多く登場するため、伝説的な存在となっている。喧嘩の強さは須崎清、森田雅(鹿島神流師範代)、石井福造(現住吉会内・石井会の初代会長)ら元安藤組大幹部に証言されているが、加納貢によれば「喧嘩は確かに強いが、それほどの人物ではなく、軍隊でいえば軍曹クラスが精々」であるという。また、安部譲二は人物、喧嘩の強さとも評価しておらず、人によって評価が分かれる人物である。

その喧嘩は「素手喧嘩(ステゴロ)」と呼ばれ、喧嘩に武器は一切持たない主義であったという話がある。 白のスーツがトレードマークであった。

引用:Wikipedia 


Focus 1: 花形敬の喧嘩の強さは“東京の伝説”だった

 

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戦争は昭和を蹂躙し、日本の暴力社会も破壊した。

闇市が建ち並ぶ都市部はテキ屋の天下となったが、同時に愚連隊といつあだ花が全国で咲き乱れた。

簡単にいえば暴力専業者で、なんら生産的な活動をせず、人間関係の隙間に寄生する、欧米のギャングに近い部分もあって、“ナリ”の模範になったのは、アル・カポネといったアメリカのギャングスターたちだった。

力がすべての時代が生んだ限定品と呼んで差し支えない。

戦後の渋谷で誕生した安藤組は、安藤昇という伝説の不良少年(カリスマ)の周囲に、力を渇望する若者たちが集まって自然発生した愚連隊である。

最強の喧嘩師として有名だった花形敬も、安藤に憧れた不良の1人で、安藤組大幹部だった花田瑛一とともに、真っ白なスーツをトレードマークにしていた。これも愚連隊ファッションの定番である。

花形敬の喧嘩の強さは、東京の伝説だった。

半端な不良はその名を聞いただけで逃げ出した。

 

「相手が何人いようと関係なかったし、武器を持ってても知ったこっちゃない。土日は不発が多かったから、道具はドスとセットだったんだ。出なかった時の予備だ。そういう事情もあったけど、弾に当たれば死ぬさ。でも武器を持ったことはみたことない」(花形敬の舎弟)

 

そう、花形敬の喧嘩伝説および白いスーツの無敗神話は、その死まで続いたのである。


 

Focus 2: 一度暴れだしたら誰にも止められなかった花形敬

 

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昭和5年生まれの花形敬は、東京世田谷に生まれた良家の子息。

家柄もよく、実家は大地主である。

経堂の墓地を訪れると、敷地に古い墓石が2つあって、花形家が名家だったことが忍ばれる。

伝説の喧嘩師となる花形敬は国士舘中学を暴力事件で退学になつたあと、明大予科に進むものの、やはり退学して安藤組入り。

花形敬を直接知るヤクザたちの証言を端的にまとめると、「ステゴロの達人で無敵のストリートファイター」となるだろう。

 

「ありゃあ怪物だ。喧嘩をした俺たちが言うんだから間違いない。いま親分と言われる人たちだって、敬さんに頭が上がらなかった人はたくさんいる。ぶっ飛ばされた人も何人もいるんだ。暴れたら台風と一緒。嵐が過ぎ去るのを黙って見てるしかない」(当時・稲川会二次団体幹部。故人)

 

花形敬の名を聞くとヤクザが震え上がつたという伝説および話は、決して大げさなものではない。

「青二才がふざけやがって!」

そう意気込んで拳を交えたら、もつと悲惨な結果に・・・。

 

「喧嘩で賭をするのは誰でもやる。普通は勝つか負けるかだ。だけど花形敬の場合は相手が1発で沈むか、2発かで賭けた。花形敬のパンチは鉛みてえに重めぇんだ。食らったらどんなに図体のでかいヤツでも、たいがい吹つ飛ぶ。相撲取りだって膝をつく」(安藤組大幹部・森田雅。安藤組の別働隊隊長。鹿島神流の達人・故人)

 

一瞬の勝負……それが花形敬の伝説を語る上で欠かせない“ステゴロ”だった。

前述したように花形敬は一時期、好んで白のスーツを着たというが、これはたとえ喧嘩に
なってもスーツを汚さない・相手に指一本触れさせないという自信の現れだったのである。


 

Focus 3: 花形敬が力道山と対峙した伝説

 

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プロレスラーの力道山さえ、花形敬の前では借りてきた猫のようだった。

2人のぶつかりあいは、力道山が渋谷にキャバレー「純情」をオープンさせたことが発端。昭和30年、鳴り物入りで宇田川町にオープンした「純情」は、この地の覇者である安藤組に挨拶をせぬまま開店したのである。

力道山はプロレス界のスーパースターであると同時に、リングを降りてからもめっぽう喧嘩が強く、酔うと手の付けられない暴れ者だった。その上、飛ぶ鳥を落とす勢いにある町井一家(その後東声会となり暴力事件を頻発させた。現東亜会)と極めて密接な関係にある。

乱暴な言い方をすれば限りなくグレーゾーン、今風にいうなら半グレといっていい。

花形敬と安藤組の大幹部たちは、その話を聞きつけるとすぐに純情に向かった。

 

「おい、なんの用だ」
鼻息荒く力道山が言う。

 

「てめぇに用はねえ。ここのオヤジに用がある」
花形敬は顔色1つ変えない。

 

「この店の用心棒は俺だから話があれば聞く」
「ここをどこだと思ってやがる。てめえみてえなヤツに用心棒がつとまるか!」

 

真っ赤な顔でワナワナと震える力道山は、鼻っ面を付き合わせるようにして花形敬と睨み合った。

 

「飲もう」
そう言って折れたのは力道山だ。

 

結末は暴力社会の人間が国民的英雄に「2度と悪酔いして暴力をふるいません」との確約をさせるというブラックジョークのようなものとなった。

皮肉なことに花形敬も酒乱のむごさでは右に出るものがいない。普段は寡黙で大人しく、後輩の面倒見もいいが、酔うと人格が変わる。

 

「花形さんが酔っぱらって歩いてくると、みんな脱兎のごとく逃げちゃう。機嫌が悪いと殴られるし、裸踊りをさせられたり、煙草の火を顔に付けたりする。安藤組の大幹部の人たちとは、たいてい普通に話ができる感じがしたが、花形さんは並日段は何ともないけど、酔っぱらうとヤバいなって思っていた」(元安藤組花田一派)

 

だが、舎弟たちはそうした見方を否定する。

 

「花形さんが死んで、まるで狂人のように言われると戸惑う。そんなことは全然なかった。一度姐さんに届け物があって、敬さんが住んでた三茶の家に行ったことがあった。そしたら姐さん、一生懸命窓辺の花に水をやって「ごめんね。ちょっと待ってて。あの人、花が枯れてると、出ていっちゃうから』って言うんだ。繊細なんだよ」(元安藤組花形一派)

 

このように伝説の喧嘩師と語り継がれる花形敬だが、もしかすると意図的に外部に対する恐怖を演出していた可能性もあるのだ。


 

Focus 4: 狙撃されるも不死鳥のごとく蘇った伝説的エピソード

 

花形敬は安藤組内部でも、深刻な衝突を引き起こした。

どちらも頭を下げず内部対立は臨界点を突破したのである。

昭和33年2月、花形敬は同じ安藤組組員によって銃撃されてしまう。

俗に言う宇田川派と大和田派の内部対立ということにもなるが、どちらかといえば酔って暴れ回り、狼藉をはたらく花形敬個人に対する感情の暴発だったと言われる。

刺客は千鳥足の花形敬を呼び止め、真正面から銃口を向けたらしい。問合いを詰める花形敬がに無言で刺客が引き金を引いたのだ。

初弾が体をかすめ、脇の壁にめり込んだというが、

 

「おい、なんの真似だ。お前にゃ俺を撃てねえよ」

 

花形敬はゆっくりと左の拳を差し出すと、刺客は再び引き金を引き、今度はその拳を弾丸が貫くと血飛沫が舞い、花形敬がよろめいた。とどめの二発目が花形敬の腹部に吸い込まれ、刺客は花形が崩れ落ちるのを確認して走り去る。

しかし、花形敬は不死身だった。

自力でタクシーに乗り病院で応急処置を受けると、医者の制止を振り切り、そのまま女と夜の街に戻ったのだ。弾丸が運良く体を貫通していたため、軽傷で済んだとはいっても常軌を逸した行動、並外れた体力であることは間違いない。

皮肉なことにこの内部抗争は安藤組にとってプラスに作用した。
激しくぶつかり合ったことで、派閥間の冷戦も解消されたのである。

昭和33年6月、列島を震撼させた日本郵船横井英樹襲撃事件が勃発。組長の安藤以下、おもだった幹部たちが検挙され、花形敬も刑務所に送られた。

後方支援だったため、いち早く出所した花形敬は組長代行に就任。安藤組の建て直しに着手する。このときの花形敬はまるで人が変わったようだったという。

力で相手を屈服させてきた男が、話し合いを重視し、組織のため下げたことのない頭を下げた。しかし、裏社会は冷酷だった。

拳を封印された花形敬をおそれる人間はいない。

安藤不在の安藤組は、渋谷の縄張りを狙う他組織から、集中砲火を浴びる。

町井一家との抗争が勃発すると、報復の刃は花形敬に向けられた。

昭和38年2月27日、川崎市の路上で待ち伏せていた町井一家組員によって、花形敬は刺殺された。

強い物ほど殺されるという定理が、またひとつ証明されたのである。

 

引用&参照:昭和の不思議



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