犯罪史上最悪の「宮崎勤事件」と一族の末路まとめ

宮崎勤の気配が息づく幼女誘拐現場。
そして、宮崎勤の一族がたどった末路。

日本の犯罪史上、彼が起こした殺人事件はいつの時代になっても風化されることはないだろう。

埼玉県入間市にある入間ビレッジ7号棟前に架かる歩道橋。この歩道橋で、KMちゃん(当時4歳)が連れ去られたのは1988年8月22日のこと。

東京と埼玉をまたいで発生した連続幼女殺人事件はいまもなお都市伝説めいた話が浮遊している。

今回はあまりにも有名な宮崎勤事件とその一族の末路についてまとめた。

一族の末路がとてつもない…「宮崎勤事件」まとめ

宮崎勤のプロフィール

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宮崎勤 (宮﨑 勤)(みやざき つとむ、1962年8月21日 – 2008年6月17日)は日本の連続殺人犯で、東京・埼玉連続幼女誘拐殺人事件(警察庁広域重要指定第117号事件)の容疑者として逮捕・起訴され、死刑判決が確定し、刑死した人物である。

引用:Wikipedia


Focus 1: 今もなお宮崎勤の気配が息づく誘拐現場

 

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事件のあった歩道橋は、入間ビレッジ7号棟と小学校の中間地点に架かっている。私がこの場所を訪ねたのは、平日の午後3時過ぎ。ちょうど宮崎勤がKMちゃんを連れ去った時刻である。

彼はK , Mちゃんを自身の愛車である日産ラングレーに連れ込み、自宅からほど近い場所にある東京·五日市の山林へと向かったのだった。

事件からかなりの年数が経ち、この場所を通学路に使う小学生たちは、宮崎勤が起こした事件を知らないのではなかろうか。ただ、この界隈に長く暮らしてきた人々や小学校の先生たちには、今も生々しい記憶として残っていて、不審者への警戒を怠らないのだ。

K·Mちゃんを愛車に乗せた彼は入間市から国道16号線を南下。土地勘のあった東京電力新多摩変電所(東京都八王子市)へと向かい、そこで車を止めて、ハイキングコースを歩いて日向峰の山林の中でKMちゃんをいきなり押し倒し、絞殺した。

翌日も殺害した現場を訪ね、K·Mちゃんの性器に指を入れるなどし、その様子をビデオ撮影した。

翌年にはK·Mちゃんの殺害現場から遺骨を持ち帰り、自宅前の畑で家具類などと一緒に燃やしてから骨だけを拾うという奇行に及んでいる。その際、KMちゃんの半ズボンやサンダルの写真とともに段ボール箱に入れて、両親が暮らしていた入間ビレッジの玄関の前に置いた。

「幼女連続誘拐殺人事件」を盛んに報じていたマスコミによって、送られてきたK·Mちゃんの歯が別人のものだという報道がなされると、今度は今田勇子名義で犯行声明文を送りつけるのである。


 

Focus 2: 幼女を全裸撮影後、マスターベーションに及んでいた宮﨑勒

 

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2人目の殺害は、K , Mちゃん殺害から約2カ月後の88年10月3日。埼玉県飯能市内の小学校の前でY, Mちゃん(当時7歳)を見かけると、「道を教えてくれるかい?」と言って車に乗せて、KMちゃん殺害の時と同じように新多摩変電所に連行。

ハイキングコースを歩き、K·Mちゃんを殺害した場所から100メートルも離れていない場所で、同様に手を下した殺害。これまた性器に指を入れるなどしたが、死んだはずの体が動いたことに驚き、その場を立ち去ったのだった。

3人目に殺害されたN·Eちゃんは、やはり埼玉県川越市内の小学校の前をひとり歩いているところを、宮崎勤に連れ去られた。

Y.Mちゃんの事件から2カ月が過ぎ、季節は冬であったので「あったかいところに行かないか?」と言って誘い出したのだった。秩父市と飯能市の境にある正丸峠付近でN·Eちゃんが泣き出したので、車を止めた。そこで「お風呂に入ろう」などと言って全裸にさせ、写真を撮った後に殺害。その後、車に積んでいた死体を捨てようと場所を探しているうちに、山道で車を脱輪させ、慌てて遺体を近くの山林に遺棄した。

4人目の被害者は翌89年6月、東京都江東区東雲団地の公園で、ひとり遊んでいるN,Aちゃん(当時5歳)”宮﨑は言葉巧みに車へと連れ込んだ車内でガムを与えていると、N·Aちゃんに宮崎勤の生まれつき抱えていた手の平が上に向かない障害をからかわれたことから殺意を覚え、車内で事に及んだのだった。

その後、死体は自宅に持ち帰り、全裸にした上でビデオとカメラで撮影。同時にマスターベーションに耽った。

殺害後、強烈な死臭を放ち始めた死体を、自室でノコギリを使ってバラバラに解体。胴体は埼玉県飯能市にある宮沢湖霊園のトイレに、手首や足首は自宅近くの御岳山に捨て、頭蓋骨は髪の毛を抜き取り、奥多摩の山林に放置したのだった。

一連の事件を起こしてから10カ月が過ぎようとしていたが、それでも捜査の手は宮﨑には及ばなかった。次なる幼女を物色していた89年7月、宮﨑は八王子市内の公園で9歳と6歳の幼女を見つけ、6歳の幼女を公園近くの林道に連れ込み、全裸にして撮影しているところを幼女の父親に見つかり、強制わいせつの現行犯で逮捕された。後の自供によって、世間を騒がせた「幼女連続誘拐殺人事件」の真相の数々が明るみに出るのである。


 

Focus 3: 女性に無関心でいられない宮﨑家の宿命

 

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「東京の銀座みてぇだったよ。いやあー銀座以上だったな」

ある雑誌の記事によれば、いまは更地になった宮崎勤の実家の前で出会った男性は事件当時を振り返ってそう言ったそうだ。次から次へと押し掛ける報道陣に、静かな町は騒然となったという。

「事件の後、売りに出されたんだけど、誰も買い手がつかなくて。結局、人に頼んで管理してもらっているって話だよ。何度か不動産屋が来て、分譲住宅にするとか話はあったんだけど、やっばりあんな事件があった場所だから、結局更地のままなんだ夏になれば川遊びの観光客が来るから、けっこう駐車場はいっぱいになるよ」

事件を起こす3カ月前に亡くなった祖父は、宮﨑勤にとって精神的な支柱でもあった。祖父が亡くなったあと、形見分けに集まった親族(一族)を追い払ったり、祖父の遺骨を食べるなど、異常とも言える愛情を祖父には抱いていた。

事件の引き金のひとつが祖父の死にあったことは想像に難くない。だが、織物工場を経営し、町会議員を務めるなど地元の名士でもあった祖父だが女癖の悪さは地元でも知られていた。

宮崎勤の祖父は、黒八丈と呼ばれた泥染めの絹織物を織る工場を建てるまで成功したが、艶やかな噂がいつもついてまわる男だった。家の中ではそのことから喧嘩が絶えなかったというが宮崎勤が生まれた頃には、さすがに女遊びも収まっていたようだ。

その代わりなのか、女遊びが落ち着くと同時に執着したのが孫の宮崎勤だった。勤が欲しいと言ったものは何でも買い与えたという。


 

Focus 4: 離散した一族の末路と宮崎勤の魂が眠る地

 

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1962年8月21日に生を受けた宮﨑勤は、生まれた時から両手首をまわして手のひらを上に向けられない障害があった。それ故に内向的な性格が形成された。両親は祖父が経営した織物工をたたみ、「秋川新聞』というタブロイド判の地方新聞を発し、多忙を極めるようになった。よって、宮崎勤の世話は祖父と雇われた男性が見ていた。

多忙な両親に代わって祖父と雇われた男性が身の回りの世話をして育てられた連続殺人鬼・宮崎勤その成長過程で、十分に両親の愛に恵まれたとは言い難い環境であった両親は、子どもたちを含め家族揃って食卓を囲むこともなかったという。

裁判の証言で、宮崎勤が初めて幼女の性器にカメラを向けたのは事件を遡ること4年前、84年のことだと明らかになっている。

すでに問題行動を起こしていたわけだが、決定的な行動に及んだのは祖父の死後である。やはり、祖父は大きな支えであったのだ。

宮崎勤の逮捕後、父親が発行していた新聞は休刊となり、逮捕から1年後に両親は家を取り壊して五日市から姿を消した。5人兄弟の宮崎勤には姉妹2人と兄弟2人がいたが、結婚間近であった姉はそれが破談となり、妹も専門学校を退学に追い込まれた。

兄弟も会社を辞職した。

そして、逮捕から5年後の1994年11月21日。宮崎勤の父親は被害者遺族への慰謝料支払いの目処を立てると、多摩川に架かる神代橋から身を投げたのだった。

宮崎勤の家があった更地からほど近い寺に、宮﨑家の墓地があった。その寺の門前は、織物工場を建てるまで宮﨑の一族が暮らしていた土地でもあった。

墓は墓地を入ってすぐの場所にあり、供えられた花は枯れ果て、黒い御影石に刻まれた墓誌には事件の3カ月前に亡くなった祖父、自殺した父の名が彫られている。が、そこに宮崎勤の名前はなかった。ただ、墓誌の片隅に「無縁一切之霊」と刻まれていた。

これが宮﨑勤のことであり、彼が殺めた幼女たちのことを意味しているように思えてならなかった。これを知ったとき、宮崎勤の一族は現世だけでなくあの世までも、宮崎勤が犯した罪を背負っていくのだと感じずにはいられなかった。



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