往年の女優・毛利郁子が愛人を殺害した事件(現役女優殺人事件)は芸能界の黒歴史の一つと言っていいかもしれない。
この「現役女優殺人事件」はかつてTBS系「爆報!theフライデー」で特集され、再びこの殺人事件の悲しみが多勢に認知されることとなった。
そう、同事件は単純に現役女優として活躍していた毛利郁子が愛人を刺殺したわけではないのである。
ということで今回は毛利郁子が犯した「現役女優殺人事件」の全貌と毛利郁子の現在をまとめた。
毛利郁子の現在と「現役女優殺人事件」をふりかえる
1969年(昭和44年)12月14日、姫路市の北端、広峰山に近いドライブウエイのパーキングエリアの車の中で、大映の契約女優の毛利郁子(当時36歳)が一児までもうけた7年越しの愛人の水田照正(当時40歳)を包丁で刺した。その後、水田は病院へ運ばれたが、約3時間後に出血多量で死亡した。1962年(昭和37年)2月、郁子が30歳の時、姫路のヘルスセンターの出演依頼があり、その興行師の水田照正(郁子が刺殺することとなる男性)と出会う。郁子は過去に魅かれた男性と同じような匂いのする水田に良い印象を持った。興行も終わり水田から「今、京都にいるんだが、食事に付き合ってくれませんか」と誘いの電話があった。その日はレストランで食事をとり散歩したのち別れた。
この対応で郁子は水田に誠実で紳士的という印象を受け好意を持つこととなる。郁子は水田から「大阪から漫才師を呼びに来たんだけど、よかったら、一緒にドライブしませんか」と再び誘われその後、大人の関係を持つ。
郁子は女優として限界を感じており芸能界も性に合わなかった。水田と結婚して、芸能界から足を洗いたいという気持ちになっていく。この時は水田が女遊びが激しい男だとは見抜けていなかった。水田に妻子がいることや水田数多くの愛人いることが郁子にもわかる。水田は悪びれることなく郁子も別れはしなかった。
1966年(昭和41年)、郁子は水田の子を妊娠。
水田は郁子に子供を堕ろすことを要求したが、郁子は産むことを決意。子育ての準備のため住宅も購入した。1967年(昭和42年)2月に郁子は水田の子を出産した。それ以後、郁子が水田に連絡を取っても、水田は仕事が多忙であることを理由に会おうとはしなかった。
1969年(昭和44年)12月8日、前触れもなく水田が郁子に突然会いにやってきた。郁子は今まで会おうとしなかった水田への恨みを忘れて寄り添うとするが、水田から「お前はセックスが好きだからな。独りじゃ、体がおさまらんだろう。どうだい、若い彼氏でもつくってみる気はないかい」などと若い男を紹介すると言われ、郁子は水田に殺意を抱くこととなる。
画像:「現役女優殺人事件」の犯人・毛利郁子
ソース:現役映画女優愛人刺殺事件
この毛利郁子って映画女優だったんだな
毛利郁子のプロフィール
毛利郁子(もうり いくこ、1933年4月25日 – )は、日本の元女優、元受刑者の殺人犯。
来歴
1933年(昭和8年)4月25日、高知県幡多郡宿毛町(現在の高知県宿毛市)の呉服商の家に生まれる。高知県立宿毛高等学校を卒業後、親戚の経営する大分県別府市の旅館でフロント係を勤めていた1955年(昭和30年)、「全国温泉旅館美女コンテスト」で「ミス温泉」に選ばれた。
満23歳になる1956年(昭和31年)、大映に「大映10期俳優研修生」として入社。1957年(昭和32年)、大映東京撮影所が製作した特撮映画『透明人間と蝿男』でデビュー、現代劇の女優としてキャリアを始めた。当時の公称サイズは「身長160センチ、バスト96センチ、ウエスト55センチ、ヒップ92センチ」としており、大映の紺野ユカ、東宝の中田康子、新東宝の前田通子、三原葉子、万里昌代、左京路子、筑紫あけみ、松竹の泉京子、炎加世子、日活の筑波久子、白木マリ、東映の小宮光枝と並ぶグラマー女優と称された。
撮影所にペットとして持ち込むほどのヘビ好きとして知られ、猟奇的な映画で抜群の存在感を発揮した、とされ、多く報道もされたが、実際には怖がらなかった程度であり、本人は当時父親に、そういった特徴を喧伝されたほうがいいのだという旨の話をしていた。
1958年(昭和34年)6月15日に公開された弘津三男監督の『白蛇小町』で初めて大映京都撮影所作品に出演し、1959年(昭和34年)、東京撮影所から京都撮影所に異動、以降、時代劇女優に転向する。同年1月22日に公開された弘津三男監督の『青蛇風呂』では、主演女優の座を勝ち取っている。
以降、怪談映画をはじめ、勝新太郎の「座頭市シリーズ」や市川雷蔵の「眠狂四郎シリーズ」など、100本近い作品に出演した。1960年代の日本映画の斜陽期において、妖艶な演技で映画界を牽引した。殊に「眠狂四郎シリーズ」の第4作『眠狂四郎女妖剣』と第7作『眠狂四郎多情剣』において演じた「将軍家息女・菊姫」役は、その鬼気迫る演技と存在感は作品に鮮烈な印象を残した。
1964年(昭和39年)10月28日に放映を開始した連続テレビ映画『風雲児半次郎 唐芋侍と西郷』(監督安田公義/井沢雅彦、東伸テレビ映画/毎日放送)にも出演している。1965年(昭和40年)から出演作が減り始め、1967年(昭和42年)には、同年6月17日に『悪名一代』が公開されるまでの上半期の出演作がないが、以降出演ペースは従前に戻った。再上映やビデオ発売の多い『妖怪百物語』『妖怪大戦争』での、ろくろ首役も名高い。
1969年(昭和44年)12月14日、満36歳のとき、妻子持ちの男性との間に既に2歳の男児をもうけ、7年越しの交際をしていたが、その女性関係のもつれから、兵庫県姫路市内の広峰山でのドライブ中に男性を刺殺、翌日自供し逮捕される。現役の女優が殺人を犯すのは初めてであった。事件直後の同年12月20日に公開された出演作『秘録怪猫伝』は、ヒット作となった。
大映社長の永田雅一、共演者の勝新太郎らが減刑嘆願書を提出し、1970年(昭和45年)4月17日、神戸地方裁判所姫路支部における一審で懲役7年、1974年(昭和49年)9月17日に大阪高等裁判所における二審で懲役5年の判決が言い渡され、刑は確定した。その間、1971年(昭和46年)12月にはすでに大映は破産していた。毛利は和歌山刑務所に収監されて服役し、3年後の1977年(昭和52年)に仮釈放された。
芸能界は引退し、『芸能人物事典 明治大正昭和』に記述のある1998年(平成10年)11月時点では、結婚して平穏な家庭生活を送っているとされている。以降の消息は不明である。
2012年(平成24年)6月現在、100本近い毛利の出演作のうち、『透明人間と蝿男』(1957年)、『次郎長富士』『紅あざみ』『初春狸御殿』(1959年)、『ぼんち』(1960年)、『続 惡名』(1961年)、『座頭市物語』『斬る』『殺陣師段平』(1962年)、『新選組始末記』『手討』(1963年)、『座頭市血笑旅』(1964年)、『大殺陣 雄呂血』(1966年)、『座頭市牢破り』(1967年)の14作が東京国立近代美術館フィルムセンターに所蔵されている。
『白蛇小町』『執念の蛇』『青蛇風呂』の一連の「蛇映画」については、同センターに所蔵されておらず、2000年(平成12年)に大映(現在の角川書店の一部門)がVHSビデオグラムを発売するのみで、DVD等は未発売である。
引用:Wikipedia
毛利郁子は結構有名じゃないか?
愛人を殺したにもかかわらず懲役5年だからな
人間模様が手に取るようにわかって辛くなるぜ・・・
んで水田としてはただのセフレ扱いだからやるだけの存在という。
女優・毛利郁子が水田を刺殺するまでの経緯
郁子が子供の認知について切り出す。
「年が明けたら、早々に認知しないとね。さもないと、子どもが可哀相だから」
水田は聞いているのかいないのか窓の外へ目をやったままだった。
午後4時ごろ、水田が「お前、自分で産んだ子ぐらい、自分で負えよ」と認知を拒絶。それを聞いた郁子は購入した包丁を取り出した。
水田は「やれるものならやってみろ」と挑発。
郁子はMの左腹を包丁で刺した。
ソース:現役映画女優愛人刺殺事件
決して殺人事件を肯定しないけど、現役女優の毛利郁子には同情するわ
そりゃあやや名の知れた男なら引っ掛けずにはいられないのかも
子供まで産ませといて自分で育てろってさ、マジで殺されて当然だろ
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